เข้าสู่ระบบ夜の帳が落ちた神殿は、昼とはまるで違う顔を見せる。
陽光に満ち、祈りの声が高く響いていたはずの聖域は闇に包まれた途端、まるで何かが息を潜めるような静けさをまとい始める。 昼の神聖は白々しくすら思える。まるで、光がその欺瞞を隠していたかのように。 闇に沈んだ聖堂は、神の居場所などではなくなり、ただ石と装飾でできた冷たい箱と化す。華やかだった天蓋の装飾も月の光の下では虚飾にすぎない。光が届かぬ奥には祈りすら遠のき沈黙だけが残されている。 まるで隠された罪が、沈黙の奥で微かに息をしているかのように。 そんな中、俺は一人与えられた私室の寝台で目を開けていた。 微睡みなど、許されない――心も体も、休むことを拒絶していた。魂は未だに燃えている。 リリスの仇を討つという、狂おしいまでの復讐の炎が俺の内側を焼いていた。 部屋は小奇麗に整っていた。白いレースのカーテンが夜風に揺れ、月光をやわらかく透かしている。銀の燭台には淡い香が焚かれ、優しげな香煙が天井へと立ち昇っていた。 だが、それらすべてが俺には不快だった。 安らぎを演出するこの空間はまるで誰かの掌の上のようで、神経を逆撫でする。 美しく、甘やかで、完璧に設えられた空間。それは、聖女クララ=フォンテーヌのための舞台――彼女が【主人公】として輝くために練り上げられた芝居じみた世界。 整いすぎた美しさは毒のように胸を締めつける。俺が踏み入れていい場所ではないと空間のすべてが告げていた。だが、俺はそれを侵しに来た。
台本に記されていない役を演じ、主人公の座を奪うために、作られた舞台に入り込んだ、異物。
この部屋は、俺の復讐を燃え上がらせるための装置だ。完璧に演出された甘美の中でこそ、俺の怒りはより鮮やかに際立つ。 まるで、部屋の隅々からリリスの声が囁いてくるようだ。――まだ終わってない。
そう言われている気がした。窓辺に置かれた銀の手鏡を手に取る。ひやりとした金属の重みが手のひらにのしかかる。
鏡面が、静かに俺の姿を映し出した。月光に照らされたその顔は、どこまでも淡く、青白く、まるで異世界の人間のようだった。そこに映っているのは――リリスの顔。
俺が何よりも愛し、命に代えても守りたかったあの妹の面影。その完璧な模倣。
それは、時に俺自身の胸を深く抉る。仮面は外からは完璧でも、内側は血を流し続けていた。 俺はここにいない。【ヨシュア】という名は、もうここにはない。 だが――俺の魂は、まだこの体の奥底で燃えている。 鏡の中の表情は、妹のものではなかった。柔らかな輪郭、清らかな瞳、穏やかな唇。だがその奥に宿る光は、明らかに違う。 冷徹。静かな殺意、これは兄の顔だった。妹を失った男の絶望の奥から生まれた、復讐者の顔。 鏡の中の【アリス】は、静かに微笑んでいた。 その笑みはリリスのそれに寸分違わぬ、慈愛に満ちた微笑み――だが、それはすべて作られたものだ。 幾度も鏡の前で練習した疑われない表情。人々に愛され、崇められるために仕上げた、完璧な仮面。 この笑みこそが、俺の最強の武器だと感じている。誰もが信じ、心を許し、従う――聖女の笑顔。しかし、その仮面の裏で俺は憎しみに身を灼かれながら、静かに牙を研ぎ澄ませている。けれど、どれほど完璧に笑っていても――右目の奥だけは、いつも痛む。
焼けつくような鈍い痛み。心の奥から響くような、忘れられない灼熱。 それは、魔術によっても消し去れなかった、たった一つの【真実】だ。 この偽りの肉体にすら焼きついて離れない、俺の傷痕。 幼い頃、炎に包まれてしまったため、妹であるリリスを必死にかばって受けてしまった火傷。 炎で両親を殺され、残されたの妹を守るために自分の身を犠牲にし、そしてその一部として残ってしまった火傷の痕。その痕だけは、魔法陣にすら従わなかった。 右目に落ちる長い髪の奥――その下に、俺はヨシュアである証を宿している。「疼くな……やっぱり、消えないか……」
女の声帯を通して発せられた俺の呟きは、どこか別人のもののようだった。
高く、澄んだ声。それでいて、冷たい響きを孕んでいる。仮面を剥いだつもりでも、声だけはアリスのもののままだった。 外から、夜風がそっとカーテンを揺らす。 肌を撫でる冷気の中に、ふと、妹の気配を感じる。 妹は既に死んでいる、これは幻覚だ。だが、それでも――俺は、誰かに見られているような気がしてならなかった。 この痛みが、俺を【|兄《ヨシュア》】として繋ぎ止めている。 殺された少女の、たった一人の血縁者としての、確かな証。 だが同時に、この痛みが消えた時、俺は本当にヨシュアを喪うのだろう。その時にはもう、ただの復讐の器――感情も、過去も失った怪物になる。――それでも構わない。クララを、あの座から引きずり下ろせるのなら。
だが、あいつは知らない。この傷を宿したまま俺がここにいる事を。この【穢れ】こそが彼女を焼き尽くす火となることも。
その時、静寂を破るようにノックの音が響いた。控えめなその音が、なぜかやけに鋭く感じられる。空気が張り詰め、まるで仮面が剥がされる音のように。「……はい?」
「失礼いたします、アリス様……夜分遅くに申し訳ございません。王弟殿下が、ご挨拶に……」扉の外から、侍女の声が聞こえた。微かだが、語尾が震えている。
相手がただ者ではないことを、彼女も理解しているのだろう。「……王弟殿下?」
声に出した瞬間、心が静かに波打った。
予想外の名だった。まさか、こんな時に――その時、重く響く足音が、廊下を満たした。 迷いのない歩幅。支配する者の足取り。彼がどんな存在か、それだけでわかる。気配が、空気を変える。王弟――ルーカス=アルヴィン。
この国の王の実弟であり、王政と軍の両方に深く関与する男、権力の最奥に手をかける存在。その名が持つ重さは伊達ではない。
(どうして、なぜ、彼が俺に会いにきた?)
聖女候補とはいえ、俺の立場など仮初めのものだ。 何の意図があって……いや、だからこそなのか、焦る心を抑え、俺は乱れた髪を指で整えた。 深呼吸ひとつ、笑顔の仮面を被り直す。そして扉が、音もなく開かれた。 現れた男は、闇の中でも存在感を放つ鋭さを纏っていた。長身で、黒の上衣を無造作に羽織り、金の刺繍が月光を弾いて煌めいる。だが何よりも強烈だったのは――その目。 まるで、仮面の奥を覗き込むような目だった。表情こそ柔らかいが、その視線はこちらの全てを見透かそうとしているかのように。「……失礼した。夜分遅くの訪問を無礼を許してほしい……君がもう一人の【聖女候補】か?」
その声は低く、落ち着いていたが、油断のない威圧を孕んでいた。
「……はじめまして、王弟殿下。リリスの妹であります、アリスと申します。このような時間に恐縮ではございますが王弟殿下にお目にかかれました事を光栄の至りでございます」
完璧な所作で礼を取る。
柔らかく微笑み、声の高さも意図的に調節する。 仮面は――崩れていない。大丈夫、まだ【アリス】として見えている。 だが、ルーカスは俺を見下ろす視線のまま、すぐには言葉を返さなかった。その目が、わずかに右側――髪に隠された火傷のあたりに留まった。「その髪……ずいぶんと長いな。まるで何かを隠しているようだ。右目を覆っているのか?……不都合なものでも?」
「……」その言葉に、体の奥が微かに軋む。
――やはり、この男は鋭い。 初対面の一言で、いきなり核心を衝いてくるとは。 心臓がひとつ、重く脈打つ。だが表情は崩さない。声を整え、静かに微笑みながら応じる。「ええ、少しばかり古い傷がございます。幼い頃、事故で負ったものでして……醜いものですからあまり人様に見せるものでもございません」
事実の一部を切り取って、丁寧に飾る。それは【嘘】ではない。だが、すべてでもない。
「ふむ……だが聖女ともあろう方が、身を隠すほどの傷とは……よほどの理由があるのだろう」
「後悔はしておりません。あのとき守れたのは、|リリス《ねえさま》でしたから。ただ……男性にとっては、やはり、傷というのは――美しさを損なうモノ、なのでしょう?」微笑を崩さずに言い切った。優しく、しかし、その中に静かな挑発を忍ばせて。
あなたも、ただの男なら見逃して――そんな気配を滲ませながら。 ルーカスはわずかに目を細めた。まるで、面白いものを見つけたように。彼の視線は、そのまま俺の顔に残ったままだ。逸らさない。まるで獣が獲物の呼吸を読むように、静かに、だが執拗に観察している。「君には申し訳ないが……どこか、普通ではない気配がある。聖女らしい、というだけでは説明できない何かがある……もっと深く、強く……そう、何かを秘めているような――」
声が、ひどく近く感じられる。気づけば彼の距離は初めより一歩――確実に近づいていた。
この男は、俺の仮面の向こうを覗こうとしている。まるで、その奥に【誰か】がいる事を確信しているかのような目。 心臓がまた打つ。 緊張ではない――警告。 ルーカス=アルヴィンという存在が、俺にとってちっぽけな存在では済まない事を魂が告げていた。「……殿下のご直感、侮れませんわ。私には特別な願いがあります。それは聖女として――ではなく、一人の人間として、この国と人々の未来を守り抜きたいという強い祈りです」
アリスの仮面を崩さず、だがその奥に宿る怒りと誓いはそのまま乗せる。
それが、【演技】と【真実】を織り交ぜる最善の方法だと、もう知っている。「……なるほど」
ルーカスは小さく頷いた。だが、何も納得してはいない。あくまで表面をなぞっただけ。彼の目はまだ奥の【正体】を探っている。
「突然の訪問無礼を詫びる。挨拶だけのつもりだったが……少し、面白い出会いになった。君と話すのはまた愉しみだ」
「私にとっても、殿下とお話できた事は大きな喜びでございます。これからの神殿での務めにおいて、ご助言いただければ光栄に存じます」完璧な礼、柔らかな微笑、どこまでも【聖女・アリス】としての正しさを保ったまま、言葉を返す。
その瞬間、彼が不意に手を伸ばし、俺の頭に触れた。
柔らかく、優しい手付き、まるで子供を慰めるように丁寧に――優しく撫でる。――不意を突かれた。
仮面を崩すほどではないが、心が揺れたのは確かだった。その掌は何故か【敵意】ではなく、何か別の【感情】を孕んでいるかのように。
そして、彼はそのまま何も言わず、廊下へと去っていく。 背を向けたまま、わずかに首を振り、静かに笑みだけを残して。扉が閉まる。静かな音とともに、緊張の糸がふっと緩んだ。部屋に残されたのは、俺一人――静寂だけが支配する、深い夜だ。
ゆっくりと鏡の前に戻り、右目を覆う髪を指先でそっとかきあげる。 そこに現れた火傷の痕は、変わらずに、ただ在り続けていた。 痛みは……ない。いや、肉体的なそれはもう、とっくに引いていた。 代わりにあるのは、もっと冷たく、もっと深いもの。――怒り、復讐の業火、そして消えなかった【俺自身】だ。
それが、この火傷にすべて詰まっている。
ルーカスの手が頭に触れた時、ふと、あの感覚を思い出してしまった。リリスが、生前ふざけて俺の髪を撫でてきた時の、あの軽やかな指。
優しさは、時に、仮面を揺らす。けれど、もう揺れてはならない。「……俺が笑うたびにお前の世界は崩れていくぞ、クララ」
鏡に映るのは、リリスの顔を模した【聖女・アリス】。
けれどその表情は、あの子が決して浮かべなかった冷笑――薄く唇の端を吊り上げ、静かに笑う。「――お前の愛した世界は、俺の手で破り捨てられる」
その目に宿るのは、狂気と理性を併せ持った光。冷たく凍てつきながらも、確かに燃えている――これは、俺の【復讐】の目だ。
【アリス】ではなく、【ヨシュア】の魂がそこにある。偽りの肉体の奥底で、確かに生きている。
「さあ、幕が上がるぞ。クララ。お前の醜い物語の続きが、今……始まったばかりだ」
静かに吐き出すその言葉は、予言ではなく【宣告】。そして、復讐の序章に過ぎない。
……ふと、眉を寄せて独りごちた。
「……頭を撫でるのが趣味なのか、あの王弟は?」
思わず出たその呟きが、妙に場違いで、口の端がわずかに緩む。
仮面が揺れる――が、すぐにまた静かに張り直す。油断はしない。けれど、忘れはしない。 あの手の感触、あの瞳の鋭さと、底に見えた【何か】。ルーカス=アルヴィンーーあの男は、想定外だ。
どこまでが演技で、どこまでが本心なのか――まだ、見えない。
けれど、あの男が今夜、俺に【触れた】事だけは確かだ。
それは単なる礼儀ではない。まるで何かを【試す】ような、手応えを確かめるような、そんな手つきだった。 あの目がまた俺を見据える時、次はどこまで仮面を試されるだろうか。(……最期まで、【アリス】を必ず演じてやる)
きっと、試されているのだろうと理解する事にした俺は、静かに笑いながら呟くのだった。
風が吹いている。乾いた石と、草の匂いが混じった風だ。 嘗ては【聖女の祈り】が響いていた神殿跡。今では廃墟となり、祈りを捧げる者も、見上げる民もいない。 けれど――俺は、ここに立っている。 荒れ果てた神殿の階段に腰を下ろし、小さな灯火を手のひらに灯す。 それは、リリスが生前に使っていた祈祷具。割れていた欠片を修復し、こうして時折、火を灯している。 ――あれから幾年が過ぎただろう。 王都は再編され、神殿制度は歴史の中に沈んだ。人々はもう【聖女】という言葉を口にすることも少なくなった。 それでも、世界は回り続けている。 誰かが失われ、誰かが傷つき、それでも生きていく――それが、祈りを捨てたあとの、この世界だ。「……戻ってきたのか?」 背後から、聞き慣れた声がした。 振り返ると、黒衣の男――ルーカスが立っていた。 以前と変わらぬ鋭い目。けれど、どこか柔らかさを纏っている。「懐かしい場所だろう」「……ああ。だけど、少し寂しいな」 彼は俺の隣に腰を下ろす。 そして手を伸ばし、俺の手のひらの祈祷具に触れる。「リリスがいたら、何て言っただろうな」「「ようやく、肩の荷がおりたのではないですか?」って、笑うんじゃないか?」「……それ、結構的確かもな」 そのように会話をした後、俺とルーカスは、ふっと笑う。 この静かな時間が、いつまでも続くとは思っていない。 俺たちは罪を背負った。許し合ったわけでもない。ただ――手を取り合って、前へと歩き出しただけだ。「っ……」 ふと、体がふらついてしまい、それをルーカスが支える。 体を支えられたことに少し安心感を覚えながら、ルーカスに目を向けると、変わらない顔をしているのだが何処か心配そうな顔をしているのもわかった。 あと、どのぐらい生きていられるのであろう? 数
数日後――王都を、離れる日が来た。 聖女制度が崩れ、神殿は政から手を引いた。 民は混乱しながらも、新たな時代に踏み出そうとしている。それでも、俺の中には何一つ「終わった」と思えるものはなかった。 もう、二度と大切な妹のリリスは戻ってこない。 復讐は果たした。けれど、それで心が癒えるわけではない。 俺は、妹の名を守った。そのために仮面をかぶり、偽りを纏い、多くの人を騙した。 それでも――誰よりも、俺が偽りだった。 神殿を出ると、通りには人が集まっていた。 嘗てアリスと呼ばれた【聖女】の最後の姿を見送ろうとする者たち。 中には、涙を浮かべて頭を下げる者もいた。 しかし、それを見ても俺は何も感じる事が出来ない――皮肉だ。 俺は聖女でもなんでもない。 ただ、|妹《リリス》を殺したこの国を許せなかった、怒りと執念の化け物だ。 それでも人々は、俺の祈りに救われたと言ってくる。 ……リリスなら、どうしただろうな。 リリスなら、きっと――笑って許したかもしれない。優しい子だったから。 門を抜ける――この道をまっすぐ進めば、都を出て遠く離れた地へと辿り着く。 もう戻るつもりはない。 この国の中で、これ以上生きていけるとは思えない。 それに、体が限界だった。 無理やり作ったこの体は、長く持つ事はない。 いつかは崩れ、滅びるかもしれない――禁術を使った為、どうせあと数年の命なのだとわかっていた。 微かに感じる痛みに耐えながらも、俺は進む。 ――これから俺は、何をしていけばいいのだろう、と願いながら。 ふと、背後で。重たい扉の音とともに誰かが駆け出してくる気配があった。 振り返ると、そこに――ルーカスがいた。 黒衣のまま、息を切らして、手を伸ばしている。「ヨシュア……!」 俺は足を止めた。 それでも、何も言わなかった。 この男に、今さらか
夜が、白み始めていた。 窓の向こう、空はまだ暗い。だが、確かに朝の気配が混じっている。俺は静かに身を起こし、ベッドから離れた。 体のあちこちに、まだ熱が残っている。それが何によるものか――考えるまでもなかった。 ルーカスは、眠っていない――横たわったまま、天井を見つめている。そのシャツはきちんと着られておらず喉元がわずかに露わになっている。 俺は何も言わず、上着を手に取った。「……」 この部屋に、これ以上いる理由はない。 いや――本当は、理由はある。ただ、それを選べないだけだ。 扉に手をかけた、その瞬間。「……行くのか」 背後から、ルーカスの声がしたが、俺は返事をしないまま、俺は外へ出た。 離宮の回廊を抜けると、雨が降っている――夜明け前の、冷たい雨。 すぐに、服が濡れる。それでも構わず、俺は立ち尽くした。 頭の中が、空っぽだった。 祈りも、怒りも、復讐も――すべて一度、終わってしまったような感覚。 その背後で、足音がする。 振り返る前に、肩に何かがかけられた。タオルだ。まだ、温かい。「風邪を引くぞ?」「……」 ルーカスは、雨の中に立っており、彼もまたシャツが乱れたままだ。 その姿を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。 俺は、唇を噛みしめて言った。「……俺は、お前を許すことが出来ない」 声は、震えていなかった。「きっと、これからもだ。俺はお前を憎む……間違いなく、これからだ」 ルーカスの目が、わずかに揺れる。「俺の大事な妹を殺したのは……お前だからだ」 雨音が、その言葉を飲み込む。 しばらくの沈黙のあと、ルーカスは静かに頷いた。「……ああ、それでいい」 ルーカスは、静
ルーカスの指が、俺の背を撫でている。熱を帯びたその手のひらが、肩から腰へとゆっくりと滑っていく。どこにも急ぎはなく、ただ、俺が逃げ出す気配を探るように――優しく、慎重に。 俺はもう動けなかった。 殺すことも、拒むことも。そして、離れることも。「――ヨシュア」 名前を呼ばれるだけで、胸の奥が震える。 妹を殺した男のくせに。それでも俺は、こいつの声が――たまらなく欲しい。「……触れろよ」 呟いた俺の言葉に、ルーカスの手がわずかに震える。それでもすぐに、彼の指先が俺の頬をそっと撫で、唇に触れた。 ぬるいキスだった。火傷のように熱くも、獣のように荒々しくもない。 ただ、誰よりも俺の輪郭を知っている手付きで、俺の唇を奪ってくる。 深く、舌を絡めながら、喉の奥まで侵食されていく。絡み合う唾液と舌の音が、静かな室内に淫らに響いた。「……んっ、ぁ……く、っ」 息も声も、何もかも全てルーカスに支配されていく。 気づけば俺の身体は完全に晒され、下肢すら、彼の手の中でゆっくりと扱かれていた。「……反応してる」 ルーカスがくぐもった声でそう言い、俺の首筋に舌を這わせた。 その声が――悔しいほどに優しくて、息が詰まった。「殺したいくらい、憎んでるくせに。お前の身体は、俺に抗えない」「……っ!」 そう言いながらも、下腹部に走る快楽には抗えなかった。 弄ばれるように扱かれるたびに、腰が無意識に跳ね、吐息が荒くなり、声が漏れる。「ふ、ぁ……や、ぁ……っ」「喘ぐ声が、可愛い」「……くそっ……さ、さいてー……」 それでも、俺はルーカスを許してしまう。 触れられるたびに、心の
俺は喉元に食らいつくように噛みついた。 噛みつくと同時にルーカスの血の味が、わずかに口の中に広がる。 鉄の味、これは生きている証で生々しさ。 それでも、奴はまるで痛みすら快楽に変換しているかのように俺の背中に手を回してくる。「……っ、なんで……こんな……っ」 俺の声は震えている。怒りか、悲しみか、欲望か。 そのどれもが、もう混ざり合っていてわからないまま、ルーカスはゆっくりと、唇を俺の耳元に寄せる。「お前が俺を憎んで、同時に欲しているのが分かる。ヨシュア……そのままでいい。お前がそのまま俺を受け入れられなくても……身体は嘘をつけないだろう?」「だ、黙れ……黙れ……っ!」 拒絶の言葉とは裏腹に、体の奥が熱くなっているのを俺でも感じていた。 憎しみに塗れながらも、どこかでこの男を――否、ルーカスを欲しているのがわかる。 信じようとしていた目の前の男を、今はリリスの仇でもある存在だ。噛みついて殺してやろうと思っていたのに、そんな事を拒否している自分自身がいる。 こんなの、俺ではない。 そのままルーカスは喉元を舐められ、噛まれ、舌でゆっくりと愛撫されていく。その行為がまるで罰のようで、同時に少しだけ救いのようでもあった。「やめろ……やめてくれ……」「やめないさ……もう、お前も戻れない。リリスを想い、俺を憎み、それでも――」 唇が重なる。深く、貪るように。舌を絡められ、口内を蹂躙される。 息すら奪われるほどの熱に、抗う気力はもう残っていなかった。 ルーカスの手が、俺の上着を丁寧に、だが容赦なく脱がせていく。火傷の跡がある俺の肌に、彼の手が触れるたび、かすかな痺れが走る。 それでも彼は、その痕にさえも優しく口づけていった。「その傷が
沈黙は、一拍。いや、正確には【間】だったのかもしれない。 ルーカスは静かに何かを考えるようにしたあと、ようやくこちらを見た。驚きも、動揺もない。ただ、静かな目で。「……そうだと言ったら、お前はどうする?」「っ!!」 それはあまりにも、あっさりとした肯定だった。ただ、驚く事しかできない。 ルーカスは静かに笑いながら話を始める。「この国は、腐っていた。神殿も、王族も、民衆も……すでに正義では回らなくなっていた」 グラスを置く音が、乾いている。「君の妹、リリスはそれを許せなかった。正しくあろうとしすぎた。清らかで、まっすぐで……」 そこで、わずかに言葉を切る。「――だからこそ、邪魔だった」 胸の奥で、何かが軋んだ。 思い出す。あの日、リリスがメモに残していたもの。 ――セドリックは、聖女を信じていない。 ――あの人の言葉には、いつも底が見えない。 ――私が私であるうちに、本当の神に祈りたい。 ――兄さま、ごめんなさい。 リリスは気づいていたんだ、ルーカスの計画に。 しかし、ルーカスの目的はユディスを王様にするのではなく、全てを滅ぼすために。 それに、リリスは気づいてしまったからこそ、止めようとしたんだ。「説得しようとしたんだろう。止めようとした……だから、消した」 ルーカスの声には、後悔はない。 あるのは、結果を受け入れた者の覚悟だけだった。「実行したのはカイ……俺の従者だよ。命令で彼が刺して、落とした。事故に見せかけてな」 その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で、何かが切れた。 気づいた時には、俺は短剣を抜いていた。刃先は、まっすぐルーカスの喉元を向いている。 殺せる距離、殺す理由。十分すぎるほど、揃っている。 それでも――ルーカスは、動かな
祭壇の間に残された余韻は、どこか現実味に欠けている。 それは熱狂の残り香であり、祝福のかたちをした虚無――人々が自らの手で作り上げ、信仰と歓喜を重ねて燃やした偶像の最後の熱のようなものだった。 ルーカス=アルヴィンは、その終わりの光景を誰よりも静かに見届けていた。式典が終わった後もなお、一人玉座の間を見下ろす席に腰掛け、沈黙の中で目を閉じている。 拍手も、讃美の声も、消えた。 だが、彼の脳裏にはまだ、一つの影が焼き付いて離れなかった。 ――あの【少女】。 現れたばかりの、聖女候補。アリスと名乗っ
王都神殿──その中心にある《聖女の間》。 純白の大理石で築かれたその空間は、天蓋から差し込む光すら計算されたように神々しく、神の栄光を象徴する場として完璧に整えられていた。 床には精緻なモザイク、壁には歴代の聖女たちの肖像画。本来ならば、神に選ばれた少女ただ一人が玉座に座し、民の祈りを一身に受けるための場所だ。 ――だが、その欺瞞的な美しさが、俺の胸を静かに抉った。 嘗て聖女が祈りを捧げ、人々が膝を折ったこの場所は、いまやただの装飾だ。妹の血で汚されたこの空間を、俺はもはや神聖とは思わない。完璧な造形も、神を讃える歌声も、全てよく出来た舞台装置に過ぎない。 そして今日、その舞台に
王都には、できるだけ目立たぬように入った。 国境警備の副団長という立場は、本来ならばこれほど容易に本拠地を離れられるものではない。 だが、日頃から俺が築き上げてきた【貸し】と裏で手を回した僅かな繋がりが数日の猶予を与えてくれていた。 それは、この忌まわしい事実の裏側を暴くための、決して譲れぬ時間だった。 騎士団の正式な用務ではなく、個人的な理由での滞在。 表向きは休暇として処理されたが、その目的はただ一つ──リリスを殺した者への復讐だ。 そのためには情報を色々と集めなければならないと思った。 王都の喧騒は国境の冷たい風とは異なる、しかし同じくらい俺の心をざわつかせる偽りの平穏
メイヴの国境を、冷たい風が常時蹂躙していた。 灰と砂を巻き上げる風は、金属の匂いを纏い肌を容赦なく刺す。 荒涼とした大地に築かれた砦は、凍てつくような孤独と、いつ果てるとも知れない戦いの匂いに満ちている。 その最奥、簡素な執務室で、俺は報告書に目を滑らせていた。 壁の蝋燭がわずかに揺れ、筆跡の影が意味もなく蠢く。「……副団長。王都からの急使です」「急使?」 部下の声は、いつもより幾分か硬く、焦りを滲ませていた。 顔を上げれば、砂にまみれた黒いマントの使者が疲労と使命感に苛まれた顔で、やや躊躇いがちに封書を差し出す。 その所作の一つ一つが、ただならぬ事態を告げていた。 蝋







